2021年7月12日(月)
重たいタイトルだね。
でも、オートバイと死は希望と絶望と共に、いつもそこにあるテーマだと思う。
私自身、十数年のバイク人生で死に近づいたこともあるし、他人に死の恐怖を与えてしまったこともあるに違いない。
印象的な死との出会いは、事故との遭遇だ。
バイト帰り、片側4車線くらいの国道を自宅方面に走っていた。住宅の少ないその道沿いは照明が少なく、路上は暗い。
交通量の少なくなったその道を快適に走行していた時、歩道寄りの車道上に人影を見たような気がした。
通り過ぎてからオートバイを端に寄せ、降りて後ろを振り返って見た。
たしかに、そこには人がいて動いている。その人影の足元には、何か黒い大きな塊があった。少し離れてオートバイもあった。
近寄ると、青年が「お婆さん、お婆さん」とずっと呼びかけている。
事故だ。
黒い塊はお婆さんだった。素足が出ていたので私はジャケットを脱いで、足元にかけた。頭の横には肉片のようなものが落ちていた。
うろたえているうちにサイレンが近づいてきて、救急車とパトカーが止った。
現場検証やら、お婆さんの救出やらの間、私は青年の肩をしっかりと抱いていた。
友人とすら手をつなぐことを好まない自分が他人の肩を抱くなんて、今考えても意外な行動だった。
お婆さんは即死だったらしい。
青年はまだ未成年だった。被害者の家族は示談したようだ。信号も横断歩道も無い場所を渡ろうとしたこと、高齢であることで、青年を責めることはしなかったらしい。
後日、青年がうちにお礼に来た。それから数年、手紙のやり取りをして、彼はレーサーを目指したということ、幸せな結婚もしたことを知った。
だけど、彼は一生その事故のことを忘れることはないだろうと思う。
こちら側の人生が乱れてから、やり取りは途絶え、それきりだ。
さて、重たい話はまだ続く。
その事故に関わってから、自分は人生を更に悲観するようになっていた。一ヶ月かそれ以上か、とにかくその後ずっと生きることがつらくて仕方がなかった時期が続いた。
そんなある日、父が急死した。
その日の朝、絶望に近い気分でヘルメットを持ち、部屋を出ると顔色の悪い何か言いたげな父と廊下で遭遇した。
その頃、口もきかなくなっていた自分は、父を無視して家を出た。バイトをさぼって、国道4号バイパスを行く当てもなく南下していた。
しばらく走って、ふと左折して海の方面に逸れた。前方に煙突のようなものが見えた。
なんだか火葬場みたいだな・・・
そう思ったら急に帰りたい気持になった。国道に戻り、もと来た道を家に向かって走った。
帰宅すると、様子が何かおかしい。割烹着姿の叔母がそこに居て、慌てた様子で言う。
「お父さんが亡くなったんだよ。どこに行ってたの!」
当時は携帯も無く、連絡の取りようもない。いつも行き先なんて告げずに走り出していたし、自分でさえいつも行き先なんてわからなかった。
泣くだけ泣いて日々を過ごして、いつのまにか時が過ぎた。
自分が死にそうな気分だった頃に父が往き、私は生きるしかない気持になっていった。
オートバイで走っていていつも思っていたこと、それはいつ死ぬかわからないということ。
それと同時に、無事走り終えて帰って来られたことへの感謝の気持ち。目に見えない存在から守られているという実感。
死が身近であるからこそ、生きていて良かったという感動をいつも感じられていたこと。
一見矛盾しているようだけど、危険と言われる乗り物が、生きることの大切さを一番教えてくれたような気がしている。
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