オートバイのある日々が私の日常だった頃、ほぼ毎日のようにオートバイに乗って出かけていた。
そして、記憶にも残らないような小さな旅を繰り返していた。
そんな時、泣きながら走ったことがけっこうあった。
定職というものを持たずに生きてきたのが、一つの要因だ。
地道にコツコツと働く労働者を見ると涙が出た。そういう人たちの言葉にも後ろめたさを感じ、思い出しては涙した。
だけど、私の魂は、どこまでも自由に生きていたいと叫んでいた。
急な雨で飛び込んだ三陸海岸沿いの宿では、同年代の若い奥さんに「自由で羨ましい」と言われた。彼女は、子供を背負って民宿の仕事に追われていた。
四国一周で出会った日本一周中の青年が実家を訪ねてきたとき、一緒に奥松島まで走った。月浜だったか、浜で暖を取っていた漁師さんたちの一人には、こう言われた。
「若いのにぶらぶらしてると、年取ってからツケが回ってくるぞ」
その言葉は、その後の私の人生で頻繁に脳裏に浮かぶことになった。
あの時あんな生き方をしたから、今こんなにしんどいのかな・・・
これがあのとき言われたツケなのか・・・
岩手から秋田へ通じる道のパーキングエリアでは、ババヘラアイス売りのおばあさんから「お姉さんは自由でいいね」と言われた。
トンネルを走りながら泣いた。
夜の道路で工事中のおじさん、おじいさん、交通整理のおばさんなどの姿にも涙した。
ぶらぶらしていることに後ろめたさと情けなさと、罪悪感なども感じていた。
だけど、やっぱり自由でいたかった。
オートバイと出会ってから、自由を知った。
自由に生きることができる自分を知った。
そして、一生懸命生きるようになれた。
そのことの何が間違っていたのか。
何も間違ってはいない。
少なくとも私の後ろ姿を見送っていた母は、間違いだとは言わなかった。
いつも、当日、良くて旅の前日に「行ってくるから・・・」と母に告げる自分は、見送る母や父を思って少し泣いた。
泣きながら走ったのは、それらの理由だけではない。
何度も転んだり、坂道でエンストしては必至でキックしながら泣きそうになった。
初めて友人と海まで走った時に、対向のライダーからピースサインをもらって感動して泣いた。
漫画のワンシーンのように、涙が風に乗って飛んで行った。
風があまりにも気持ちよくて、泣けた。
美しい風景の中を走りながら、そんな体験をすることもないであろう、自由ではないと思えた実家の家族を思って泣いた。
日没後、道も、自分が居る場所すらもわからずに不安で泣いた。
たった一人、行き止まりの林道で崖側にバイクを倒して、泣きながら必死で引き揚げた。
泣いてばかりのようだけど、泣くも笑うも自分の自由だった。
素晴らしい日々だった。
そして、そんな思い出をいつでも引き出しから出して感動にひたれる人生は、けっこう悪くない。
★写真は愛車一号 YAMAHA DT200
1985年・1986年
宮城県・秋田県・山形県にて撮影
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