彼はそこにいた またいつか

 

「またいつかなんて言葉は私の辞書には無いのよ」

「ほう」

「行きたい時に行きたいところへ行かないと、やりたい時にやりたいことをやらないといけないのよ」

「なぜ?」

「またいつかなんていうチャンスは無いからよ」

 

 

前回bar-nへ行ったのは2週間前だった。いつもの時間に扉を開けて店に入った。客はまだ誰もいなかった。彼はカウンターの中で何かを調理していた。

 

「やあ」

「やあ」

「ずいぶん久しぶりな気がするよ」

「なぜ?」

「先週も来ると思ってたからさ」

 

彼は棚からカモシカと書かれたプレートをぶら下げた欅のボトルを下ろして、私の目の前に置いた。瓶入りのプレミアムソーダを冷蔵庫から出して、欅の隣に置いた。

 

「ねえ、欅のマティーニってどうかしら?」

「うーん、悪くはないと思うけど、欅ってさ、ジンソーダかジントニックで飲むためのジンらしいぜ」

「そうなのね」

「ジュニパーベリーの他に、地元産の柚子果皮、セリ、茶葉、ぶどう果皮が使われているんだそうだ」

「複雑なのね」

 

「先週はどこかに行ってたの?」

「うん、千里浜というところ」

「ああ、砂浜を車で走れるとこだろ?」

「そう」

「もしかしてバイクで?」

「バスと電車と徒歩よ」

「ちょうどラリーやってただろ?」

「そう、応援に行ったの」

 

ナッツの小皿の隣にお通しの鉢を置いた。イカとセロリのマリネだった。さっぱりとして美味かった。

 

「うちのお客さんも何人か走りに行くって言ってたな」

「もしかしてボトルのナンバーって、ラリーのゼッケンナンバー?」

「よくわかったな」

 

棚のボトルの何本かに、3桁から4桁の脈略の無い数字が書かれたプレートが下げられていた。

 

「歩いて行っても普通の浜辺って感じだろ。車とかバイクじゃないとつまらないんじゃないか?」

「たしかにそうね。でも行ってみたかったのよ。実際のその場所へ。そして手を振ってみたかったの。日の出から日の入りまで突っ走ってくるライダーたちに」

 

「バイクで行けば良かったんだ」

「40km走っただけで指が攣るのよ。500kmを越える距離をどうやって走るのよ」

「たしかに」

「バイクで行けるまで待っていたら、行きたい気持ちが無くなるかもしれないじゃない。それより、命が尽きている可能性もあるわ」

「おおげさだな」

 

目の前でいつもの料理が湯気を立てている。貝出汁がきいたボンゴレビアンコだ。単純なパスタ料理なのに、この店のボンゴレビアンコは妙に美味い。

 

「またいつかなんて言葉は私の辞書には無いのよ」

 

扉が開いて客が一人入ってきた。ヘルメットを持った若い女性だ。酒を飲むのだろうか。

 

「いつものでいい?」

「はい。お願いします」

 

しばらく会話が途切れ、カウンターの端の彼女の前にクリームソーダが置かれた。ソーダの色が独特だった。ターコイズブルーとパープルがグラデーションになっている。

 

あまりの美しさにクリームソーダに見入っている私の前に戻ってきて、洗い物をしながら彼は言った。

 

「たしかにそうだな。またいつかなんてチャンスは無い」

「またいつかと言って別れたのに、再会することもなかったんだ」

「こうして会っているじゃない」

 

また扉が開いた。いつもの3人組だ。いや、女性が1人後から入ってきた。合計4人だ。彼らもまたライダーなのだろうか。

 

カウンターの中の彼は手際よく酒の準備を整え、トレーに乗せてテーブル席へ運んでいった。いつもの3人組の会話はいつもより控えめだった。美しい連れの女性のせいだろうか。

 

私は棚に並んだゼッケンナンバーを見ながら、先週の旅のことを思い出していた。とりわけ印象的だったのは、宿の部屋のテーブルで美味いコーヒーを飲みながら、様々なオートバイのエンジン音を聞いていたことだ。

 

無事到着した夜のエンジン音と、帰路に就く朝のエンジン音を聞きながら、彼らはどこから来てどこへ向かうのかを想像するのが楽しかった。前夜に見たナンバープレートの地名を思い出しながら。

 

背後のテーブル席の会話がふと耳に入った。サンライズサンセットツーリングラリーという言葉が聞こえた。私は思わず振り返った。

 

 

おわり

続くかもしれない

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