「雨だね」
「ええ、雨だわ」
「もう梅雨入りかな」
「そろそろね」
「雨は嫌いではない」
「私もよ」
店のカウンターには珍しく花が活けてあった。紫陽花の一種だろうか。目の前にはもう空になりそうな欅のボトルとお通しの小皿がある。
今日のお通しは、ガーリックシュリンプだ。ナッツの代わりに小さな四角いミックスチーズの乗った小皿もある。肌寒いこんな日に、エビはありがたい。身体を温めてくれるから。
「何か作ろうか」
「そうね。何ができるの?」
「ソース焼きそば、タコウィンナー添え」
「それ、いいわね」
「雨だからさ、少し気分があがるやつにしたんだ」
「賛成だわ」
カウンターの中で、焼きそばを炒める心地よい音が聞こえてきた。いい匂いも漂ってくる。こんな日にソース焼きそばは、まったく正解だと思えた。最後のジンソーダを作りながら、ふと、質問してみたくなった。
「なぜ雨の日が嫌いではないの?」
忙しく手を動かしながら、彼は答えた。
「何もかも嫌になったとして、けっこう激しく降っている雨の日にオートバイで走ることを想像してみなよ」
「下着までずぶ濡れね」
「そこいっちゃうか」
彼は笑った。
「オートバイにとって雨降りの日は危険が多い。油断するとスリップそして転倒だ。あるいは、見通しが悪くて貰い事故。だからけっこう必死に走るだろ。悩みとか考えてる余裕なんて無いんだ」
「雨粒は痛いし、全身寒さで凍えるし。あんたが言うようにグローブやブーツや襟元やレインスーツの隙間から入った雨が、いつしか下着まで濡らしていくんだ。そしてとことん身体が冷えてくる」
「ええ、何度もそんな目にあったことがあるわ」
「で、ここからが肝心だ」
「前がちっとも見えないから、シールドを上げて顔に痛いほど雨粒を受けて走りながら、思うんだ。俺はいったい何をしているんだろう、ってさ」
「そうね、私もいつもそう思っていたわ。びしょ濡れになった顔から滴る雨が喉を伝って服の中まで流れて行くのを感じながら、自分はいったい何をしているんだろうって」
「で、そのことの何が肝心なのよ」
「その後さ。気が済むまで走って、寒さに負けて家に帰るだろ。震えながら足踏みしたりして、濡れたヘルメットとブーツやグローブ、ジャケットもTシャツもジーンズも下着も玄関にとりあえず脱ぎ捨てて、風呂に湯を入れるんだ」
「あ、わかった」
「熱い湯に浸かって何を思う?」
「今日も無事で、生きてて良かったな、でしょ?」
「そうさ、その通り。芯までだんだんに暖まってくる感じが堪らない」
「まだ、続きがあるんだ」
「あ、それもわかる」
「風呂の後の飯が最高に美味いだろ。たとえ納豆とみそ汁だけでもさ」
「そうそう、何なのかしらね、あの異常な美味しさって」
「で、出かける前には何もかも嫌になっていた顔がさ、笑顔になって飯食ってるんだ」
「そうそう、まったくその通りだわ」
「だから、雨は嫌いではない。あんたにも会えたし」
「あら、おまけが付くのね」
目の前に、赤いタコのウィンナーが3つ乗ったソース焼きそばが置かれた。湯気が上がっている。タコの足が愉快に飛び跳ねていた。
「ボトルが空になりましたが・・・」
欅のボトルを持ちあげながら、彼は畏まって言った。
「次はウィスキーにしようかしら。ハイボールが飲みたいの」
「ウィスキーか、いいね」
「甘さ控えめで、コクのある味がいいんだけど。何かお勧めがあるかしら?」
「カモシカのイメージからすると白州と言いたいところだけど、サントリー角がいいと思うよ」
「もう、ツケは充分に返してもらったから。角なら気軽に飲めるし、普通に美味い」
「ああ、ふところ具合を見られちゃいましたか」
「いや、ウィスキーの良いやつはロックかストレートで飲んでほしいかな」
扉が開いた。いつもの3人組か、と思ったら違った。白髪混じりの短髪を、リーゼントにまとめた初老の男性が1人、店に入ってきた。私の左側のスツールを二つ開けてカウンター席に座った。
「いらっしゃい。お久しぶりです」
「やっと来ることができました」
「オートバイですか?」
「ええ、近くのホテルに宿を取って置いてきました。美味い酒が飲みたくて」
黒い革のパンツにオリーブ色のジャンパー。白髪交じりのリーゼントにとても良く似合っている。タコウィンナーを食べながら、今夜は長くなりそうな予感がした。
カウンターの中の彼が手に取ったボトルのプレートには「とんずら114」と書かれていた。それもまた、オートバイの名前から付けられたものなのだろうか。
おわり
続くかもしれない
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