彼女は決めた 契約

イメージ画像 横浜
 

「私、決めたわ」

「おお、行くのか?」

「ええ」

「羨ましいよ、俺も行きたい」

 

今夜は角のハイボールはやめた。エビスビールにしてもらった。気分はもう北海道なのだ。

北海道へ引っ越すという男性の名刺には、ありふれた苗字と名前が記載されていた。一度見ただけでは記憶に残らないタイプの名前だ。

 

その人のボトルには、何というニックネームが書かれているのだろう。カウンターの中の彼に、その人のボトルのプレートに何と書いてあるのかを尋ねた。

 

「ああ、何だと思う?」

「まったくわからないわ」

「じゃあ、ヒント。建築会社、釣り好き。で、わかるはずだ」

「ん?釣りバカ?」

「お客さんにバカとは言えないだろ、流石に」

 

単純にドラマの中の登場人物の名前を彼は言った。「ハマちゃん」だとのこと。これから、私はその人をハマさんと呼ぼうかと考えた。本名よりもしっくりくる。

 

エビスビールを一缶飲み干す頃、ハマさんがやってきた。昨日、電話で先日の話を受けたいと伝えたら、明日バーで会いましょうということになったのだ。何やら、契約もしたいと言っていた。

 

「やあ、こんばんは」

「いらっしゃい」

「こんばんは」

 

ハマさんはノーネクタイでワイシャツの襟元のボタンをふたつ外していた。私の左隣の2つ目のスツールに座った。

 

「それでね、いくつか条件があって、簡単に契約をしてもらおうかと思うんですよ」

「契約、ですか」

 

ハマさんが私の目の前に広げた白い紙には、次のようなことが書かれていた。

・バイクの任意保険が運転者限定特約のため、私がドライバー保険に入ること
・ハマさんの引っ越し先までの一切の費用はハマさんが支払うこと
・引っ越し先に着いてからの旅の費用は私が支払うこと
・引っ越し先に着いてからの旅の日数は限定しない
・引っ越し先までは2台で向かうこと
・お互いに恋愛感情はもたないこと
 
以上の項目が並んでいた。最後の項目は不要のように思えたが、ハマさんも土砂降りの沖縄での話を知っているのかもしれない。
 
ちらりとカウンターの中の彼を見たら、逆から契約書を読んでいたらしく、さっと視線をかわされた。
 
まったくおしゃべりな男だ。この店に来るお客の大部分に、彼は私と出会った時のことを話しているのだろうか。
 
ハマさんは同じ書類を2通用意していて、生憎印鑑を持っていなかった私は、ハマさんの仕事用の朱肉を借りて両方に拇印を押した。
 
まったく夢のような話だ。
旅のスタートは1ヶ月後、夏の終わり頃だ。本州では暑さが続いていても、北海道ではもう秋の気配が本格的になる頃だろうか。
 
旅の準備を急がなければならない。未だ購入していないスマートフォンも必要になるだろう。宿探しや予約のために使うことになるから。
白い道の他に、どこへ行こうか。マップも必要だ。スマートフォンを買っても、私は紙の地図を頼りに走るつもりだから。
 
「ハマさん、私、重要なことに気がつきました」
「何ですか?何か契約内容に不備が?」
「いえ、SR400に乗ったことがないのです。過去に乗ったオートバイはすべてオフロード。ここ数年、年に一度乗ったのもすべてオフロードバイクの250ccなのです」
 
「問題ないですよ。100キロも走れば、慣れてくるでしょう。それに私が一緒に走りますから」
 
そういうものだろうか。事前に何度か練習したいという言葉を言えずに、2本目のエビスビールと共に言葉を飲み込んだ。えーいままよ、だ。成り行きに任せよう。
 
ハマさんとカウンターの中の彼は、北海道の話で持ち切りだ。彼は私と出会った沖縄から本州へ戻り、北東へ縦断すると北海道へ渡ったらしい。いつしか、彼の思い出話に花が咲いていた。
 
 
おわり
きっと続くでしょう

 

 

 

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