「バイクは何にお乗りで?」
「2台持ちなんですよ」
「ほう、それは羨ましい」
「ツアラーとオフロードバイクです」
「車種は?」
「スズキのGSX-S1000GTとヤマハのセローです」
「ロングツーリングと林道用ですか?」
「ええ、そんなところです。スズキはあの鮮やかなブルーとスタイリングに惹かれました」
そんな感じにマスターと立ちごけの恩人の会話は続く。マスターが気に入ったのか、恩人さんはボトルをチャージした。ジョニーウォーカー ブラックラベル 12年と言っているのが聞こえた。それと、ソーダと氷。ハイボールだ。
「ところでお怪我は無かったですか?」
恩人さんは不意に私の方に顔を向けてそう言った。
「ええ、けっこう酷かったんです。今はかなり回復してますけど」
「足ですか?」
「ええ、脛の内側と腰の右側でした。腰はねん挫と言われました」
「ちょうど店を出てきたときに立ちごけの様子を見てしまいました。もう少し後なら支えて差し上げたのに」
恩人さんはなぜか愉快そうに笑った。立ちごけがそんなに面白かったのだろうか。私はちょっとムッとした。
マスターがボトルをカウンターに出して、ネームカードに名前を書こうとしている。彼はこの恩人さんを何と名付けるのだろう。
とても興味深く私はその様子を見守った。恩人さんと私の顔をちらと見てから、彼はこう書いた。助っ人。
「オートバイは、乗ってるときは一体になった気分になれますけど、こけるとクソ重いだけの物体に化しますからね。人間の相棒が乗っかってくるのとはわけが違います」
「たしかに」
マスターと助っ人さんは、また二人の世界に入り込んでいるようだ。2人ともにやにやしながら嬉しそうに会話をしている。
「走っていなければ、ただの金属とかFRPの塊ですからね。いくら愛しい愛車でも、生身の身体にのしかかって来られたら皮膚や肉や骨を容赦なく痛めつけることもありますよ」
「人間の相棒なら、瘤ができるくらいでめったなことで負傷はしないでしょうしね」
「ええ、傷を負うとしたら心の方が多いでしょうね」
2人の男は愉快そうに笑った。私はそんな男たちの話を聞くともなく聞きながら、頭の中でSR400のことを考えていた。乗れるのだろうか、私に。いや、既に2度も乗ったのだから、乗れないわけはないのだけれど。
オートバイに乗ることが怖くなっている。その気持ちは傷が癒えつつある今でも続いているようだ。もし、立ちごけではなく事故だったら。命を失うことにならなくても、身体に受けるダメージは想像がつかない。
肉体労働で生活を維持している自分には、身体のダメージは致命傷なのだ。仕事ができなくなる。貯金で食いつなぐほどの蓄えも無い。不安は不安を呼んで、純粋に楽しいバイクライフをイメージすることができなくなっていた。
「また来ます。今夜は楽しかった」
「ありがとうございます。ぜひ、また。お待ちしてますよ」
恩人さん、いや、助っ人さんが店を出る頃、彼が店に入ってきてから2時間ほど経過していることにやっと気が付いた。その間、私はうすぼんやりと考え事をしていたのだ。
「私もそろそろ帰ります」
「おお、もう11時か。自転車か?」
「そう」
「飲酒運転になるから気を付けろよ。っていうか押し歩きだな」
次の週はbar‐nに行かなかった。ハマさんの家へは、ほとんど毎日のように通った。仕事の日も休みの日も、早朝か夕方にハマさんの家へ行き、家じゅうの窓を開けてからガレージへ行った。
シャッターは開けずにガレージの照明を点け、SR400のキックを踏み下ろす。何度目かでエンジンが軽快に始動する。心地良い音を奏で始める。さすが楽器を売る会社のオートバイだと、いつも思う。
しばらく排気音を聞きながら、その美しい姿を愛でて30分ほど過ごす。夕方はその限りではない。缶コーヒーを持ち込んで、飲みながらその音を楽しむことも多かった。
そんな日々が続いた。それでも私は、ガレージのシャッターを開けることができなかった。ヘルメットとグローブとプロテクター入りジャケットとライディングシューズを持参することもまだしていなかった。
私は心の中に一つの決心をしていた。次に公道を走る時には、イタリア製ガエルネのアドベンチャーツーリング用ブーツを履くのだと。SR400に、黒革の膝下までくるオフロードタイプのブーツはきっとしっくりくるに違いない。
なぜなら、SRはオフロードバイクが元祖だそうだから。きっと違和感は無いに違いない。そして、そのがっちりしたブーツは、肩幅の広い長身の男っぽい体型の私にもピッタリ似合うと確信している。
季節はいつの間にか秋を過ぎ、冬になろうとしている。並木道を舞い踊る落ち葉の量もかなり減った。
寒さが憎むほど嫌いな私は、もうしばらく、少なくとも心躍る春になるまでオートバイには乗らないだろう。ガレージの中以外には。
おわり しばらく休み
次の物語に移ります
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