めずらしく、開店早々に3組の客が入った。今日のお通しはミックスナッツだ。ヒーローさんの食事以外、手の込んだものは作れない。
2組はハイボールとホタテとカニのマカロニグラタンを注文した。もう1組はグラスワインとブルスケッタ。ヒーローさんは調理台の前でスタンバイしていた。
グラタンをグリルに入れて待つ間、ヒーローさんはステレオのレコードを交換した。ハスキーな声の女性ボーカルのJAZZだ。
ドアが急に開いて、ぶっきらぼうに男が1人入ってきた。ギターの入った大きなケースを持っている。
「遅くなりました。カウンター、いいですか?」
「ええ、どうぞ」
この人は誰だろう。遅くなったということは、新しい留守番さんなのか?他の留守番さんたちより下の世代のようだ。
「高速バスで東京から来たんですが、さすがに寒いですね。ホットコーヒーをいただけますか?」
3組の客は軽い食事を終えるとすぐに帰って行った。料理はどちらも好評だった。
カウンターでコーヒーを飲んでいた男は、ギターをケースから出すと店の奥の椅子に座りギターを奏で始めた。
悲しけりゃここでお泣きよ 涙ふくハンカチもあるし・・・そんな失恋レストラン いろんな人がやってくる
彼は歌い始めた。ヒーローさんはステレオのスイッチを切った。同じ歌をもう30分も歌っている。彼は何者なのだろう。
ソーダ水の君は話疲れたのか、カウンターで1人、空中を見つめながらぼんやりしている。
「あの、もしかしてあなたは留守番さんですか?」
私は思い切ってギターの男に声をかけた。急に満面の笑みを返して、男は答えた。
「ええ、そうです。私が留守番ナンバーフォー!です」
その時ドアが開いてお客が入って来た。1人の年齢不詳の男性だ。どことなく、ナンバースリーまでの留守番さんたちに近い雰囲気がある。
「カウンター、よろしいですか?」
「ええ、どうぞ、お好きな席に」
彼はソーダ水の君から2つ開けてスツールに座った。
「あのぉ・・・もしかして・・・る」
「え?何です?」
「いえ、何でもないです。ご注文は?」
「ええ、そこにボトルがあるんですけど・・・ソーダと氷のセットでお願いします」
「えっと、ごめんなさい。急な留守番で・・・ボトルのお名前は?」
「あ、失礼しました。自分で言うのも恥ずかしいのですが・・・映画のタイトルで・・・ミリ・・・」
「あ、わかりました!!!嬉しいなあ、ミリオンダラーベイベーさんですよね?」
「え、ええ、ベイビー、ですけど」
「じゃあ、留守番ナンバーファイブでいいですよね?」
「いえ、留守番の話は知ってるんですが、仕事の都合で引き受けなかったんですよ」
「ええ、じゃあ、今日は?」
「マスターのSNSを見ていたら、バーにオートバイ乗りの留守番が集結しているという話で、とても楽しそうでね。仕事終わってから新幹線で来てしまいました。明日は休みなので」
「そうですか。留守番さん2名は今日フェリーで帰っちゃったんですよ」
「ああ、それは残念。遠くからいらした方々ですね?」
ミリオンさんに、2人の留守番、ヒーローさんとギター弾きさんを紹介した。そして、左隣にいるソーダ水の君のことも。
「せっかくですから、留守番用のお酒を召し上がって下さいな。夕べは酒飲みの2人の調子がいまいちで、思ったほどお酒が減らなかったのです」
「そうですか。では、つまみを注文して、お酒だけ遠慮なくいただこうかな」
ミリオンさんはマカロニグラタンとブルスケッタ両方を注文した。追加でタコウィンナーも。
「ウイスキーで良いですか?宮城狭ですけど。あとは浦霞とビールがあるんです」
「おおそれは嬉しい。宮城狭が飲めるとは」
「ソーダと氷のセットにしますか?」
「いえ、せっかくだからストレートにします。小さなグラスでお願いします。チェイサーもいただきたい」
宮城狭はフルーティーで華やかな香りが特徴で、口当たりが優しくて飲みやすい。ミリオンさんはそう言った。ストレートが一番おいしく飲めるのだそうだ。
「美味いなあ。やはり来て良かったです」
「そう言っていただけると嬉しいです」
ブルスケッタを運んできたヒーローさんは、カウンター越しにミリオンさんとお互いのバイクの話を始めた。オートバイ乗りの挨拶は、まずそれぞれの愛車の紹介から始まるらしい。
オーブンのブザーが鳴り、ヒーローさんは慌ただしく調理台に戻って行った。
「ミリオンさんもバイク乗りなんですね」
「ええ、そうですよ」
それまで静かにしていたソーダ水の君がミリオンさんに話しかけた。
「あの、質問してもいいですか?」
「何でしょう?」
「ミリオンさんにとって、オートバイって何ですか?」
ソーダ水の君は、私が知りたかったことを質問してくれた。私はタコウィンナーの準備をしながら聞き耳を立てた。
「そうですね。イキイキと生きるために必要なもの・・・かな。ちょっと違うか。生きることが素晴らしいと教えてくれるもの・・・かなぁ。単純に言うと、ただ好きなだけなんですけどね」
「深いお答えですね」
「そう思うようになったのも、年を取ってからですけど。病気をしてから余計にそう思うようになりました。そもそもはマシンとしてのオートバイが大好きだったんです」
「そうなんですね」
「あなたもバイク乗りなんですか?」
「いえ、まだ憧れているだけなんです」
「やあやあ、僕もバイク乗りの一人ですよ!」
奥の席からギター弾きさんが元気な声で言った。
「僕にとってのオートバイは、風を感じるためのもの。季節と言ったらいいのかな。僕を限りなく自然な状態に戻してくれるものとでも言いますか」
そう言うと、彼はまたギターを弾き始めた。今度は丸テーブルに広げた譜面を見ながら。そして歌い始めた。
風がどうの、季節がどうの、そんな歌詞が聞こえてくる。聞き覚えのないメロディーだ。
歌詞もメロディーも素敵だった。ふと、迷い込んだ細いワインディングロードを走っていた時のことを思い出した。もう、何十年も昔の初夏の記憶だ。
まったく意識せずに、ふと思った。また走りたいな、と。
ほぼ同時にソーダ水の君がぽつりと言った。
「わたし、決めました。バイクの免許取ります」
「ほう、とうとう決意しましたか」
ヒーローさんがマカロニグラタンをミリオンさんの前に置くと、満面の笑顔でそう言った。
「じゃあ、今夜は、ソーダ水の君の新しい出発と、2人のオートバイ乗りさんとの出会いに乾杯しますか。賄い用の食料も用意してありますから」
ヒーローさんは、いつのまにかパック入りのトロ巻きと笹かまぼこ、牛タンスモーク、定義山の三角油揚げなどを買い込んでいた。
もちろん、マカロニグラタンとブルスケッタも留守番用に用意してある。
金曜日の夜だというのに、客足は途絶えた。ギター弾きさんの演奏と歌が続く。外は小雨が降りだした。
私は外に出ると看板を中に入れ、closedの札をドアに掛けた。
「今夜は店仕舞いしました。皆さんで小さな宴会を開きましょう」
「いいんですか?まだ午後8時ですよ?」
「外は雨で寒いですから、もう人も歩いていませんし」
ギター弾きさんとヒーローさんは、マスターの家に泊まることになっていた。タクシー利用決定だ。
ミリオンさんは大いに語り合いましょうと2人に誘われ、目の前のホテルをキャンセルしてマスターの家に同行することになった。
「あなたは、大丈夫?家は近いのですか?」
「ええ、地下鉄で2駅です。9時過ぎには帰ります。今夜は、とってもいい夜です。ほんと、来て良かった」
ヒーローさんと私はつまみと酒の準備をした。ギター弾きさんも、持参したロングエプロンをいつのまにか身に着けてやる気満々だ。
「僕、こういうの憧れてたんですよ。小さな店のマスターみたいな感じ」
美味しく食べて飲み、今夜もまた初対面とは思えない人々の和やかな空気が流れていた。
つづく
予告・・・次はマスターの旅の話にしようかな
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