「ねえ、何持ってけばいいのかしら」
「なんだよ、知ってんだろ、それくらい。沖縄まで行ったカモシカくん」
マスターは、カウンターの私の前にお通しのホタルイカのおろし生姜添えを置き、何を飲むかと聞いてきた。私はお通しを見て、浦霞一合を注文した。
「まあ、そうだけどね、集合場所がキャンプ場でしょう?私、ユースホステルとか安ホテル派だったから、テント買わないといけいないのかしらと思って」
「誰かのテントに潜って寝ればいいさ」
「誰かって・・・ほとんど妻子持ちの人ばかりじゃない」
「ソーダ水の君と一緒が無難なコースだろうけど」
「寝袋は持ってるのよ。何10年も前のもの」
マスターは、ガラスのお猪口とガラスの徳利を私の目の前に置いた。
「おお、そういえば、3日前にカモシカくん居ますかって、男前のオフローダーが来たぜ」
「え?だれよ」
「なんかさ、港の方の工場見に来たって言って、コーヒーとナポリタン注文して食って、閉店間際に北東に向かってったぜ」
「あ、もしかしたらあのお兄さん・・・マスターと同じ年の?」
「そうそう、おんなじ年だった」
「工場見てからとんぼ帰りするって呟いてたから、てっきり食事もせずに走りっぱなしなのかと思ってたわ」
「ここに寄るとはねぇ」
「なにやら、専門的な仕事やってるみたいでさ、正義が通らないから辞めるって感じのこと言ってたんだ」
「で?なんで工場行くのよ、それも夜中に」
「なんでだろうな?」
「聞いてないの?肝心な部分を」
「うん、ほとんどバイクの話とエンデューロの話ばっかしてたから」
真夜中のオフローダーは、SNS繋がりの元気のいい呟きが特徴のお方だ。3日前、たしかに今から港の工場へ向かうと呟いていた。
まさか、仕事が終わった時間に関東から東北のこの地へ突っ走って来るとは想像もしていなかった。寒いから気をつけてとだけ返信しておいたが、このバーへ立ち寄ったとは知らなかった。
彼は子供を1人で育て上げ、専門的な技術職に精を出していた。環境を配慮した理想的な方向を目指したが、会社の方針がそれを良しとせず、本懐を遂げることなく辞職することになったと言っていたそうだ。
「うわぁ、まるでドラマのような話ね」
「そうだな。大抵そういうドラマは正義が負けるんだ。でも最後の最後には勝つんだけどな」
「というか、会社がダメになって、彼のような人の考えが正当化されるのよ。その頃にはもう遅いって話よね」
「ドラマだと、そういう事実をニュースか何かで見て、悔しい思いをするって感じかな。自分がもっと頑張っていればそんなふうにならなかったのにって後悔するって感じ?」
「でも、彼、明るい雰囲気の人よね。呟きからそんな感じが伝わってくる」
「そうだな、何があっても前に向かっていける男だって感じはしたな」
「うん、まるでオートバイね」
「うまいこと言うな。後ろには進めないってか」
「そうそう、人生はオートバイよ」
「振り返るのは後方確認の時だけってか。スピード上げて追い越しかけるための」
「そうそう、ノスタルジーはバックミラーの中だけ」
「なんだそりゃ?」
「なんとなく、言ってみたかっただけよ」
「彼も誘ってみるか」
「北海道?」
「そう」
「ところで、テントよ。飯盒とアルコールストーブとか一式は持ってるの」
「なんだ、持ってるなら無問題だろ」
「その他に何か必要なものって無いの?」
「気になるんなら、千葉の動画クリエイターのキャンプ動画見まくれよ、なんでもわかるから」
「あのW乗りさんの?」
「そう、知ってんじゃん」
「なんだか楽しみで落ち着かないわね」
「ほんとだよ」
ホタルイカと浦霞、至福の時間が流れていた。
もうすぐ北海道へ行くのだ、本当に。
つづく
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