なぜライダーは北海道を目指すのか。そのことについて、私は知らない。
イメージとしては、広い大地にどこまでもまっすぐな道、青い大空、乾いた風、美味い食べ物、そんなところだ。
今回行くことになったのも、barのマスターが行こうと言ったからだ。
北海道に憧れたこともない。20代でオートバイに乗り始めてから乗らなくなるまで、一度も行ってみたいと思ったことがない。
ただ一度、山小屋を作りたいという小さな夢を抱いて居候に行ったことだけはある。給料無しの住み込みで、山小屋つくりを体験しませんか、という募集に応募したのだ。
行ってみたら何のことはない、薪割りと喫茶店と簡素な宿の店番と掃除、そして宴会の世話係。それが私の仕事だった。ご飯と寝床だけはタダってやつだ。
休みも無く2週間が過ぎた。その間には、宿の主人の高校生の息子の無免許運転の車で山道をドライブしたり、宿の主人と共に役場のお偉いさんに高級な鮨をたらふくご馳走になって、食いすぎだと後でこっぴどく叱られたり、喫茶店の電話を取るとチャールズグリコさんに「あなたはだいじょぶです」とか言われたり、いろいろなことがあった。
当時、世間ではグリコ事件の真っ最中だったから、笑えない話だ。
そして疲れ果て、ある日ペンションという名ばかりの簡易宿の掃除の途中に、部屋の鍵をかけて昼寝をしてしまったのがバレて、さんざん叱りつけられた。そして信用を失った。
あげくの果てには、遠慮もせずにただ飯を食いやがってと主は言った。
給料も無く、休みも無く、楽しみと言えば冷凍のジンギスカンと白飯くらいのものだったから、私は遠慮せずにたらふくいただいた。それももうできなということだ。
しね、あるいは出て行けという意味にしか聞こえない。そんな思い出しかない北海道だ。
私は登別温泉からの坂を海に向かって歩いて下りながら、不機嫌に渡された数枚の千円札を握りしめていた。くそやろーと言いながらだったか、泣きながらだったか忘れたが。あっという間に坂を下って海沿いの駅に着いた。
北海道へは仙台港からフェリーで行った。当時反抗していた父の車で母と妹もいたっけか。ただ行ってくるからとだけ言って船に乗り込むと、息せき切った友人が数名見送りに来て涙を流した。
そんな大げさな旅立ちだったものだから、帰るに帰れない。なけなしの金で札幌、函館、青森の安宿に一泊して戦に負けて帰る戦士のような気持で実家へ帰った。
そんなふうにあっけなく夢破れた私を再び、いや更に上に持ち上げてくれたのがオートバイだった。
しょぼんとしている私に、親友の彼氏の友人が「幸せは白いTシャツ」の写真の横顔が似ていると言った一言から、私のオートバイ人生が始まったのだ。
オートバイにも車にも乗らない男と暮らすために関東へ引っ越すまで、私は夢中で駆け抜けた。
「お待たせしました。スパークリングワインとアペリティフチャージプレートです」
「ありがとうございます」
「何かリクエストはありますか?」
「いえ、特にありません。良く知らないので。何か威勢のいい曲をお願いします」
「かしこまりました」
そう、ここはいつものbar_nではない。有名な観光地の港へ向かうJR線の途中の駅で降りて、住宅街へ向かって10分ほど歩いて行くと、ちょっと洒落た建物が住宅地の中に建っている。
今どきの洒落たジャズ喫茶なのだ。防音が完璧になされた建物は、外には全く音漏れがしない。
そして夜はワインバーになる。店の主人が元ワインの輸入の仕事をしていた関係で、美味いワインも飲める店にしたのだそうだ。
GWは特別営業で、昼飲みができると聞いて予約しておいた。連れがいないのは寂しいのかと思ったが、爆音自慢のこの店で連れがあるのはかえってじゃまだ。言い過ぎかもしれないけど。
連れの代わりに2冊の本を持ってきた。ジャズを耳と身体にぶち込みながら、北海道のことを知るためだ。
何も知らずに訪れる未踏の地も感動的だと思ったが、興味の対象を何か胸に仕込んでいくのもまた良いだろうと思いついたのだ。
そろそろ大よその旅のルートも決めておきたい。行き当たりばったりも良いが、やたらと目的地へ着くのに時間がかかるという話を耳にした。
その日その日の宿に無事着いて、美味い飯をきちんと食べるためには時間の計算もしておかなければいけない。
キャンプ道具も持って行く予定だが、快適に旅を続けるには疲労をためないために、皆との約束の地でキャンプをする以外は安宿を予約して行くつもりだ。
威勢の良いJAZZの曲がスピーカーから溢れ出した。これは、前回珈琲タイムに訪れたときにリクエストした、コルトレーンのアフリカだ。
つづく
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