「なあ、沖縄、行けないんなら、この店たのもうかな」
「え?なにそれ」
彼が言うには、旅に出ている2週間ほどの間、このバーで店番をしないかということだった。
酒もつまみも、私にできる程度の簡単なものに限定して、客が来なくても店にいて水道の水を流したり風を通すだけでいいと言う。
「もちろん、俺が留守にすることと、カモシカという人が店番することを前もって告知して、トラブルがないようにしておくし」
「実は、もうSNSでは半分冗談で告知しちゃったんだけどな」
「なによそれ。そもそも、いま聞いたばかりの話じゃない」
「元ヘビーなバイク乗りだった、もうすぐSR乗りとして復活する予定の美人のおねえさんが店番する予定ですって、告知した」
「なんてことを」
「だって、ことわる理由無いだろ?」
「早朝からのパート仕事はどうするのよ」
「もちろん掛け持ちさ。まあ、せいぜい夜の10時頃まで営業して、あとは帰って寝ればいい。ほんの少しだけど、バイト代も出すよ」
「SNSのFFさんがさ、それじゃあ店に行こうかって張り切ってるんだ。遠くのライダーまで。手伝いたいという料理好きのライダーすらいるんだぜ」
「そもそもね、おねえさんという表現はどうなのよ。男にとってのおねえさんは10代後半から20代くらいのものでしょ?」
「いやあ、俺より5歳年上だから、おねえさんで間違いはない」
「どんな理屈よ」
角のハイボールで酔いも回っていたせいか、頭の中がグルグルと回っていた。目の前は白くぼやけているように見えた。
沖縄へ行きたい思いを断ち切ったばかりだというのに。心の整理がつかない。
それに、今夜はマスターに悩みを聞いてもらいに来たのだ。彼が旅に出る前に。
私は無理やり話題を変えた。
「あのね、わたし自分の気持ちがわからなくなってるのよ」
「え?何の話?」
「自分はオートバイに本当に乗りたいのかどうか、わからなくなってるって話」
「まあ、うすうす感じてはいた」
「そうなの?」
「まあな、乗りたければ冬でも乗るだろ、あんたの場合」
確かにそうだ。あの頃の私は、雨が降ろうが雪が降ろうが、路面が危険でさえなければオートバイに乗っていた。
理屈ではなく、乗らずにいられなかったのだ。
幸運にも憧れのSR400を無償で手に入れたにもかかわらず、半年でまだ3度しか乗っていない。
一つの理由は、秋に立ちごけして思いのほかダメージを受けたことだ。足と腰のダメージに加えて、心のダメージが大きかった。
バイクに乗れるという自信を、大きく損なってしまったらしい。はっきり言えば、怖くなったのだ。
腰の痛みと足の痛みを我慢してパート仕事へ行った。ゆっくりした動作で働きながら、また怪我をしたら働いて収入を得ることが確実にできなくなるだろうと感じた。
蓄えもほとんど無い。身体の自由がきかなくても収入を得られる道を探さなければいけないとすら思った。
身体は意外にも丈夫なもので、数日で元のスピードで動けるようにはなったが、微かな痛みと傷は今でも消えていない。
一番の問題は、どうしても乗りたいという衝動が湧き上がらないことだ。もう、自分にとってオートバイは、無くてはならない存在ではないのではないかと思った。
SRはそもそもハマさんのものだから、ガレージにそのまま置いておけばいい。何日かガレージに行くことを辞めたこともあった。
しかし、頭の中には常にオートバイがあった。道を走るオートバイを目で追う自分がいた。
「どうすればいいと思う?」
「そうだなあ、やっぱ乗るしかないんじゃないかな」
だから、大人のバイクスクールに参加したり、レンタルバイクに乗ってみたりしたのだ。しかし、今振り返ると、やはり、乗らずにいられない衝動は起こらなかった。
自然に身体が流れて行くのではなく、自分の背中を自分で押してバイクに乗りに行っていたようなものだ。
もう、気が済んだのではないか?しかし、頭の中からオートバイの存在は消えてくれない。
SNSのライダーたちのつぶやきが単純に好きだ。ガレージでSRを見ているひとときが心地いい。
「めずらしいな」
「なにが?」
「理屈で考えてるってこと。いつもなら気分次第じゃない?どっちかっていうと」
「わたしだって考えることあるわよ」
「いいんじゃないか?そのままで。乗りたきゃ乗る、そうでなければ乗らない。考えたければ考える。ただそれだけで」
「そうなのよ。答えはそれしか無いのよ」
「じゃあ、一件落着ってことで、店番オッケーだな!」
「それとこれとは別問題でしょ!」
「いやいや、カウンターの中でいろんなライダーと話すといいよ。何かが見えてくるに違いないから」
あ、それは素敵な提案だ。彼の言葉に素直にそう思えた。人と話すことが極端に少ない自分には、いい機会かもしれない。
「ところで、奥さんとお子さんは?」
「まだあっちの実家にいる。俺が旅から帰るまであっちにいるってさ」
「ってことは、旅することは許してもらえたのね?」
「そう。そうでもしないと俺がいつまでもだらけてしまうだろうってさ」
マスターに本音を話したら、急に空腹を覚えた。しばらく食べられなくなる、あれを作ってもらおう。
「やきそば、お願い。タコの乗ったやつ」
「おー、そう来なくちゃ。あんたのいいとこはさ、悩んでても傷んでても食欲が消えないってこと」
「え、なんかひどい」
「それに、非常に美味そうに食う。大事だよ、そういうの」
焼きそばは美味かった。満腹になると気持ちも明るくなるものだ。
私は bar‐n の留守番を引き受けた。
帰り道、1人で歩きながら、頭の中には一つのやっかいなキーワードが残っていた。
人生は、そう長くない。
つづく
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