
扉を開けてバーに入ると、彼はカウンターの中でほほ笑んだ。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくね」
「明けましておめでとう。こちらこそ」
bar-nの初営業は、2023年最初の金曜日の夜だ。昨年の5月からこの店に来はじめて、今ではもう毎週来ないと気が済まない。
マスターは調子を取り戻したように見える。テキパキとした動きで、つまみを盛り付けている様子だ。
「なんだよ、そんな目で見つめるなよ」
「あ、ごめん、見つめてた?」
年末年始にひとりガレージで過ごした時、彼と出会った沖縄でのことを思い返した。その余韻がまだ残っている。実物を目の前にして、複雑な心境だった。
「で、何飲む?」
「そうねぇ・・・」
「正月だし、日本酒って感じだろ?」
「あ、当たり」
「だから言ってるだろ、あんたのことはマルっとツルっとお見通しだってさ」
「また言ってる」
「はい、めでたい金粉入り浦霞」
「うわ、素敵!」
「はい。お通しっていうか、本日の限定メニュー。これしか出さないよ、今日は」
「あら、すごい!」
熱々の蒸し牡蠣3個と品よく盛り付けられた刺身だ。
「塩釜まぐろ、金華さばの〆さば、三陸天然ひらめの昆布〆」
「すごい豪華じゃない」
「まあな、これもいい常連さまのおかげなのだ」
「ほんと、顔が広いわね、マスターって」
「そうそう、これ、お土産。鯛吉のたい焼きなんだけど」
「おお、大好物。俺のこともわかってくれてるって感じかな?」
「ううん。あなたのこと、何もわかってなかったってこと、最近気づいたわ」
「あ、そうなの?」
「もう一つお猪口いただける?」
「もしかして俺の分?」
「そう。乾杯くらいしたいじゃない」
浦霞は文句なしだし、牡蠣も刺身も新鮮でとても美味しかった。
「俺さ、旅に出ようと思うんだ」
飲み干したお猪口を置くと、唐突にマスターが言った。
「え?お店辞めちゃうの?」
「そういうわけにもいかないからさ、1週間か2週間くらい休みにしてさ」
「沖縄へ行こうかと思うんだ」
「え?おきなわ?」
彼の口から沖縄という言葉が出るとは、思いもよらなかった。北海道へ行きたいと、少し前に言っていたばかりなのだから。
「なんかさ、また行きたくなっちゃってさ。あんたが店に来はじめてから、時々思い出すんだよ沖縄のこととか、日本一周した頃のことを」
「それに、とんずらさんとKくんが来月からまた旅を再開するって言うんだ。雪を避けて鹿児島まで突っ走って、そこからフェリーで沖縄本島に渡る予定だってさ」
「そうなのね」
「俺も合流しようかと思ってるんだ」
「鹿児島まで走るの?」
「そうなるかな」
そうなのだ。彼と出会った沖縄へ旅した数十年前には、東京の埠頭から沖縄行きのフェリーが航行していた。
大阪・神戸からのフェリーも既に終了している。今は鹿児島からの便しか出ていないのだ。
「バイクだけ東京から貨物船に乗せることもできるみたいよ」
「ああ、それも考えたけどさ、それじゃ旅って感じじゃないだろ。現地でレンタルバイク借りたほうがコスパもいいし」
「そうね。旅とは言えないかもね」
「行かないか?おきなわへ」
「え?そうきたか。北海道にも行けてないのに、わたし。それに、ほぼ日本半周することになるじゃない」
行きたい、心の中ではそう思った。しかし、SRに乗ることすら自信を無くしている自分には、沖縄どころか北海道すら遠い。
マスターは電子レンジで温めたたい焼きをうまそうにほおばっている。私は手酌で浦霞をお猪口に注いだ。
胸がさわいだ。私も旅に出たい。
つづく
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