ばあちゃんとエンジンの音

私には、ばあちゃんが3人いる。

父を生んだばあちゃん、母を生んだばあちゃん、母を育てたばあちゃんの3人だ。

父を生んだばあちゃんは、私が生まれる前に死んだから会ったことがない。母を生んだばあちゃんと母は、母が3歳位の頃に別れた。母は、伯母にあたる育てのばあちゃんの養女になったのだ。

縁を切ったわけではなく、姉妹でもある2人のばあちゃんは普通に頻繁に行き来していた。だから、私も何の疑問も無く、2人のばあちゃんに可愛がられて育った。

母にだけ2人も親がいることを、不自然に思ったこともない。田舎のばっぱと、うちのばばちゃんと呼び分けはしていたけど。

母を育てたばあちゃんには子供がおらず、母は成長してお婿さんをもらった。それが父だ。というわけで、私は母の育ての親との二世帯家族の中で育った。

小学生の頃の私は、夏休みになると、母の生みのばあちゃんのいる田舎に1人で預けられた。母の生みのばあちゃんは、畑仕事や自然の中で一人遊びすることを私に教えてくれた。

あちこちに出稼ぎに行き、あちこちの娘や息子を1人で訪ねて歩く自由なばあちゃんだった。自由でいることは、田舎のばっぱに教えられたのかもしれない。

うちのばあちゃんは、よく幼い私を湯治のお供に連れて行った。1回の湯治で1週間も10日もいただろうか。ばあちゃんは、温泉と湯治場の楽しさを教えてくれた。

むかし、実家の前の道路でよく猫や犬が轢かれて死んだ。うちのばあちゃんは、それらの動物の死骸を拾ってきては、丁寧に供養していた。動物好きも、うちのばあちゃん譲りかもしれない。

うちのばあちゃんは、歌や旅行が大好きで、いろいろな人とのおしゃべりも好きだった。じいちゃんと時々旅行したり、宴会したり、人生を楽しんでいるように思えた。楽しそうなじいちゃんとばあちゃんが、私は好きだった。

いつの頃からか、ばあちゃんは一人で逃げるように湯治場へ行くようになった。学校が休みの時に、私がお供に付いて行くようになった。小学校の頃の私は登校拒否だったので、両親にはあまり可愛がられず、ばあちゃん子だったためもある。

湯治へ行くためのお金が足りなくなったのか、いつの頃からか、ばあちゃんは温泉へ行くことをやめた。そして、お酒にのめり込むようになった。ほぼアル中のようになった頃、酔ってよろけて食器戸棚のガラスに頭を突っ込むように倒れた。

母は怖がっていたので、ガラスの破片などを私が片付けた。血だらけのばあちゃんを手当てしたのは誰だっただろう。私だったのかな。記憶が曖昧だ。

お酒に頼るようになったばあちゃんを、母や父は嫌煙していたように私には思えたけど、ばあちゃんをそこまで追い込んだのは両親ではないだろう。

ばあちゃんには、よほど辛い事情があったのだろうと私は思う。誰にも語らずに一人で抱え込んでいて、抱えきれなくなったに違いない。

じいちゃんは冷静な人で、だけど、二世帯大家族の中で唯一血の繋がりのない立場だったから、とても孤独だっただろうと私は思う。

じいちゃんの元に顔も知らないまま嫁いだばあちゃんだけど、2人はとても仲が良さそうに思えていた。それもいつの頃からか、ぎくしゃくしてしまっていたような気もする。

ガラスに頭を突っ込んでから、うちのばあちゃんは寝たきりになった。病気でも何でもなかったのに、心の闇が起きて生きることを諦めたのだと思う。今なら心の病だったと言われるかもしれないけれど。

それから何年だろう、ばあちゃんが寝たきりのまま生き続けたのは。かなり長い年月、母はたまに叔母に助けてもらいながら、ばあちゃんの世話をしつづけた。

寝たきりになったばあちゃんは、たまに私を呼んだ。その頃、私は自分からばあちゃんの部屋に行くことをしなくなっていた。

枕元に仏頂面で行くと、ばあちゃんは枕の下から小さな白い包みを出して私に差し出すのだ。紙に包まれたお札だ。千円札が何枚か入っていた。

ばあちゃんが何かを話すのをいいかげんに聞いて、優しい言葉の一つも残さず私は部屋を出た。さんざん可愛がられ、お小遣いをたくさんもらい、赤ん坊の頃から育ててくれたばあちゃんなのに、できることなど何もなかった。

それどころか、心の中にはばあちゃんに対する怒りを秘めていた。あんなに元気で楽しそうに生きていた、それなのに今の様は何なのか。病気でも何でもないのに・・・そんな思いを私は心の奥に秘めていた。

寝がえりを打てなくなったばあちゃんは、腰の骨が見えるほどに傷んでいた。とうとう入院が決まった。その頃の病院は、付き添いが必要だった。

ばあちゃんの世話をしている年月の間に父が急死し、不慣れな商売を継いだ母には限界だった。私はちょうど嫌になっていたバイトを辞め、付き添いを手伝うことにした。

実家でのことだったのか、病院に入院してからのことだったのか、なぜか記憶が定かではないけれど、ある日ばあちゃんは、そばにいる私にぽつりと言ったのだ。

「あなたがオートバイで出かけていく時のエンジンの音が聞こえてましたよ。オートバイに乗る姿を一度見てみたかった」

あまりにも意外な発言に、私は衝撃を覚え、同時に泣きそうになってその場を離れた。ヘルメットを持って外に出て、急いでキックペダルを踏み込んで、そのままどこかへ走りに行ったのだったかな。たぶん、泣きながら。

ばあちゃんは、オートバイを、私がオートバイに乗っていることを、オートバイに乗っている私が生き生きとしていたことを、動けない布団の上で、すべて知っていたのだ。

話したいこともあっただろうに、辛い思いも想像できないほどあっただろうに、ばあちゃんは、私が1人ででかけて行くオートバイのエンジンの音に耳を傾けていたのだ。

腰の骨が見えるほど傷んで入院していたばあちゃんに、私は一度酷いことを言ったことがある。

「病気でも何でもないのに、なんで起きられないのよ。なんでそんなふうになったのよ」

意識が無くなっているように見えていたばあちゃんの返事は無かったけど、ばあちゃんにはしっかり聞こえていて、自責の念に駆られていたのだろうと私には思える。

その後間もなく認知症と癌で、じいちゃんが入院した。病院の計らいで、2人は同室になった。だけど、ばあちゃんに看護師さんがこう言った時、ばあちゃんは微かに首を横に振ったのを私は見ていた。

「おじいちゃんがそばにいて良かったですね」

ばあちゃんに何があったのか、もうわかってもあげられないけど、私は思う。

人生の最後まで、私は楽しむことを諦めない。それを教えてくれたのは、あなたたちだったはずだから。

そして、狭い部屋の布団の上でたった1人、オートバイのエンジンの音を聞いていたばあちゃんのことを、私は死ぬまで忘れないだろう。

★写真は、母の生家に行った時に雨が降り、大事なオートバイが濡れるからと、母の生みのばあちゃんが自分の農作業用のカッパをかけてくれた時のもの。

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