「湿度が高いわね」
「まったくだ」
「気温はそんなに高くないのに暑苦しいわ」
今日は店の扉は閉じられ、エアコンディショナーを除湿26℃に設定していると彼は言った。外は一日中、曇り空で、梅雨が明けたとは思えない天気が続いていた。
カウンター席に座ると、彼は棚からウイスキーの角瓶を下ろそうとした。
「今日はハイボールの気分じゃないの」
「ほう」
「何か湿気の多い暑い日に合う飲み物はないかしら」
彼は黙って頷くと、冷蔵庫から缶ビールを取り出してカウンターに乗せた。沖縄のオリオンビールだ。
「懐かしいだろ。湿気の多い夏の夜は、やっぱ暑い地方のビールでしょ」
「懐かしい。涙が出そうだわ」
「本当は、スーパードライを出したかったんだけど、新バージョンになってから評判がいまひとつなんだ」
「あ、わかるわ。先日、家で飲んでみたら、何か以前と味が違ってた」
ビールを飲むことを予期したかのように、お通しは茹でた枝豆の山盛りだった。塩具合が絶妙に美味い。手際よく、お任せのつまみも作ってくれた。胡瓜とチーズを入れたちくわだ。
「そう言えば、とんずらさんの親友の息子さん、なぜこの店に来るようになったの?」
「親友の葬儀の日に息子さんに会えなかったとんずらさんが、息子さんにメモを残したんだよ」
メモは喪主である、親友の奥様に託された。内容は、亡き父上の愛したオートバイを君に乗ってほしいというようなものだった。丁寧に綴られた文章だったと、息子さんはこの店に来た時に言っていたそうだ。
「それでさ、後日、息子さんはとんずらさんに手紙を送ったんだ」
「物語のような話ね」
二輪の免許は16歳の時に取得、18歳で大型二輪免許も取得済みで、もちろん父のW650 は僕が乗ります。という内容だったそうだ。息子さんはオフロードバイクにのめり込んでいて、父親と一度もツーリングをしたことがなかったらしい。
「それは悲しいわね。男なら、父親なら、息子とお酒を飲むことと、息子とツーリングすることは究極の夢だと思うわ」
「でさ、その後とんずらさんから息子さんに一枚のフォトカードが届いたんだ」
表には、宛名の下に、もし僕に会いたいと思ったらこの店を訪ねるように、とだけ書かれていた。裏面には、二台のW3の横で爽やかに笑う二人の若い男が立っている、古いモノクロームの写真だった。
「それって、若い頃のとんずらさんと親友さんね」
「そうだよ。俺、見せてもらったんだけど、息子さん、親友さんにそっくりでさ。泣きそうになったよ」
話を聞いただけで、私も目が潤んだ。冷えたオリオンビールを飲み、枝豆を口に放り込む。胡瓜とチーズ入りのちくわをかじる。美味い。湿気った夏も、悪くないなと思えるのだった。
「だけど、まだ二人は会うことができていないのでしょ?」
「そうなんだよ。とんずらさんも、親友の息子さんも、特に約束せずにこの店にやってきて、ただ飲んで食って帰って行くだけなんだ。伝言だけでも頼んでもらえれば、喜んで伝えるんだけどさ」
「なぜかしらね。何かきっかけが必要なのかしら」
扉が開いて、がっちりした体格の初老の男性が1人入ってきた。白髪交じりの髪の毛が乱れて逆立っている。無精ひげもワイルドな雰囲気を醸し出していた。カウンター席の真ん中に座った。
「いらっしゃい」
「いつもの頼むよ」
「はい、いつものね」
カウンターの中で氷を割る音が響いた。間もなくして、白州のボトルとシンプルなデザインの冷えたロックグラスと、かち割り氷の入ったガラスのアイスペールが並んだ。
初老の男は慣れた手つきでグラスに氷を入れ、グリーンの美しいボトルからウイスキーを注いだ。そして、いかにも上手そうにゆっくりと飲み干すのだった。その様子に、つい見とれてしまい、口から言葉が出てしまった。
「美味しそうに飲まれますね」
「いや、失礼。ご挨拶もまだでしたね。ビールですか。どうですか、よろしかったら一杯飲みませんか。美味いですよ」
「え、よろしいのですか?では、遠慮なく一杯いただきます」
「はい、いつもの。あんたも食べるよね?」
初老の男性と私の前に、それぞれサラダボウルに入ったポテトサラダが置かれた。平たい皿にはフランスパンのスライスしたものが数枚乗っている。
「特製のいぶりがっこ入りポテトサラダ。とびきり美味いやつ」
白州のロックは思った以上に美味かった。2杯目を勧められたが、かなり酔ってしまったので丁重に断った。スツールから降り立つと、足元が揺らいだ。初老の男性にお礼を言い、会計を済ませて店を出た。
酔っていても、白州にぶら下がったプレートに書かれた文字は見逃さなかった。そこには「The BEAST」と書かれていたように見えた。
相変わらず蒸し暑い夜の空気の中を歩きながら、とんずらさんと親友の息子さんのことを考えていた。2人が日本一周するのが、物語的にはごく自然な流れに違いないと。
おわり
続くかもしれない
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