目の前にアスパラのベーコン巻きの乗った小皿とツブワサの小鉢が並んだ。
「今日のお通しは二つなのね」
「いや、ツブはサービスさ」
「漁師の常連に、売り物にならないツブを大量に貰ったんだ」
「ツブ貝には毒があるのですってね」
「おう、よく知ってるね」
「貝好きなのよ」
「女性の貝好きは珍しいな」
「そうなの?」
「貝が好きなのは男が断然多い」
「なぜ?」
「そういう自然界の決まりなんだ」
「わからないわ」
「酒に酔った深夜の会話のネタだよ」
彼は意味深に笑ってごまかした。私は自分でジンソーダの2杯目を作って飲んだ。いつものように、氷無しで。
「こういうものを食べると、この街に帰ってきて本当に良かったと思うの」
「何年大都会に暮らしてたんだ?」
「大都会ではないのよ。この街より小さな町だったわ」
「今までの人生の約3分の1くらいね」
「好きではなかったお刺身なんかが恋しくなるのよ、離れて暮らしてみると」
「腹は減ってる?今夜も飯食っていくか?」
「ええ、いただくわ」
「いつもの、と言いたいとこだけど、国産のアサリが手に入らないんだ。だからいつもと違う料理でもいいかな?」
「何ができるの?」
「エビとムール貝とイカのペスカトーレ」
「わお、美味しそう」
「アサリ無しだけどな。三陸産のムール貝は味が濃くていい出汁が出るんだ」
「この町で暮らしててさ、なんで外国産の不味い食材を食わなけりゃいけないんだと思うよ」
「海も山もあって、美味いものがいくらでもあるんだぜ」
「まったくその通りね、私もそう思うわ」
今夜はいつもより遅い時間に店に来たため、既に先客が2組ほどいた。いつもの3人組はまだ来ていない。先週の彼らの会話に出てきた、サンライズサンセットツーリングラリーの話題は、いつか出てみたいなという軽い話題だった。
カウンターの中の彼は、ペスカトーレ作りに集中している。今夜は珍しくビールを飲みながら仕事をしていた。そういえば、店の前に赤いタンクのカワサキが無かった。
「ねえ、カワサキはどうしたの?」
「うん、今日は乗りたくなかったから、歩いてきた」
「そんなこともあるのね」
「年に一度か二度くらいあるな、そういう日が」
「理由は何なの?」
「そうだな、季節と天気と倦怠感と気分、そういうのが全部悪条件だった時には乗りたくない」
「じゃあ、今日はバッドデイなのね。悪い時に来てしまったわ」
「そうじゃないんだ。獣の勘みたいなやつさ」
「そんな日に無理に乗ると必ず何かが起こる。そういう予感みたいなものだな」
「野生の勘てやつかしら」
「そうさ、人間だって動物だからね」
「デジタル化とかあらゆるものが便利になって、人間は野生の勘を失ってしまっている」
「昔の俺たちは、地図は紙か頭の中にあっただろ、あとは勘てやつ」
「今じゃ誰もがスマホのアプリで示されるルートに従って走るのさ」
「自分の走る道さえ自分で決められなくなっている」
「そうね、たしかに」
「あのどしゃ降りの日のことを覚えているか?」
「沖縄の?」
「そう」
「忘れもしないわ」
「あの時、俺、怖くてたまらなかったんだ。あんたに、付いて来いとは言ったけど」
「酷いどしゃ降りだったわ」
「そうさ、路面からも降ってくるように見える酷い状態だった。道路の白線どころか、実は信号も良く見えなかったんだ」
「私には、あなたのオートバイの赤いテールランプしか見えなかったわ」
「あれが、そうさ、獣のもっている野性の勘てやつさ。命がかかってるとそういう能力が異常に冴えてくるんだ」
「あなたのおかげで生き延びたのね」
ドアが開いた。例の3人組と、また女性が1人付いてきた。ウイスキーのボトルは「カタナとゆかいな仲間たち」と書かれたプレートに変わっていた。
カウンターの中の彼は、いつものようにトレーにグラスやお通しを乗せて運んでいった。カウンターに頬杖をついて、私は沖縄のどしゃ降りの日のことを思い出していた。微かに目が潤んだ。
おわり
続くかもしれない
コメント