「あなたが止めてくれればよかったのよ」
女は言った。
「俺には俺の事情があったのさ」
男は言った。
彼に手渡された名刺を見ながら、いつ彼の店に行こうかと考えた。もちろん、仕事が休みの日の前日がいいに決まっている。彼の笑顔を思い出すと、ほんとうはすぐにでも行きたい気持ちになっていた。
その日は生憎の雨だった。かなり激しく降る雨だった。まるであの日のようね、と私は思った。出逢ったばかりの彼と沖縄の海で遊んで、ユースホテルへ帰る道で酷いどしゃ降りにあったのだ。
店の前に来ると急に緊張してきた。扉をすぐに開けることができなかった。軒下で傘をたたんでいると、扉が開いた。
「いらっしゃい。来ると思ったよ」
「どうしてわかったの?」
「勘だね」
「何飲む?」
「お約束のボトルキープ。欅にして下さい」
「やあ、いいの?高いよ」
「いいんです。この街で若葉の美しいこの季節にジンを飲むのなら、欅を飲むべきだと思うのです」
「それに、ツケを返そうと思ったらまだまだ足りないでしょ」
ライムもレモンも氷も無しで、ソーダを一本頼んだ。お通しは、ナッツと妙に美味しい煮つけのようなもの。
「酷い話だな」
彼と小さな島で別れた後、東京行きのフェリーで出会った男と結婚した話を聞いて彼は言った。
「そうね。たしかに」
結果的に酷い生活の後に別れたことを話すと、彼はまたこう言った。
「まったく酷い話だな」
「止めてくれればよかったのよ。あなたが」
「俺には俺の事情があったのさ」
彼はフェリー代とわずかな食費を持って、小さな島を出た。予定していた沖縄のとあるビーチのホテルに、知人を訪ねた。旅の資金を稼ぐためだ。
知人はホテルのバーでバーテンダーをやっていた。彼も旅をする前は地元でバーテンダーをやっていた。既に知人には話を通してあった。
夜はバーテンダー、日中はホテルの手伝いなどをした。ホテルで働く一人の女性と出会った。かなりいい仲になった。
「そうなのね。まったく酷い話だわ」
私がそう言うと、彼は愉快そうに笑った。
「もっと早く連絡をくれて、私が間違った道へ進まなように止めてくれれば良かったのよ」
「いや、俺も失敗したんだ。勘弁しろよ」
彼は酷い失恋をしたらしい。女性には夫がいたのだ。事実を隠して彼と恋仲になった。ホテルに知られ、彼は予定よりも早くホテルを辞めて旅に戻った。
東北の日本海側の街から、カワサキの400ccで日本一周の旅に出た。旅のきっかけは失恋だ。かなり痛手を負った彼は、仕事先のバーを辞めてオートバイを買って旅に出ることに決めた。傷心旅行というものだ。
旅先でまた女にフラれたのだと、真面目な顔で私を見て言った。
「旅先でダブルだぜ。酒の話じゃないよ。旅の前、旅の途中で2回も女にフラれた。合計3回だ。3人とも年上だ」
「ほんとうに酷い話ね」
「あんたが島を去ってから財布も心も酷く寂しくてさ、もう誰でも良かったのかもしれないな」
「そうなのね。こちらも同じようなものよ。フェリーの甲板でラジオを聞きながら泣いていたら、元夫が優しくしてくれたの」
旅を終え、東北の日本海側の街へ戻ってから、彼は部屋を引き払って太平洋側の街へ引っ越した。私の生まれ育った街だ。
「なぜこの街へ来たの?」
「なんとなくさ」
この街で彼は年下の女性と出会い、結婚した。二人の子供がいるそうだ。
「今は幸せなのね」
「あんたのおかげだな」
「なぜ?」
「この街に来なければあいつとも出会えなかった」
「ほんとうは、あんたに会いたかったんだ。この街に来たら会えるような気がした」
「そうなのね。まったく残念だわ」
「いま、バイクには乗ってないの?」
「ええ」
「数年前から一年に一度乗ってはいるけど」
「ほう」
「あなたはずっとカワサキなのね」
「そうだね。カワサキが好きなんだ」
「恋人はいないの?」
「いないと言えばいない」
「いると言えばいるのか?」
「いないわね。強がりよ」
他に誰もいなかった店に、お客が三人入ってきた。会話はそこで途切れた。
薄暗い船内のような店にふさわしくない妙に陽気な三人の常連らしき客を相手に、彼は忙しく立ち働いていた。瓶ビールの栓を勢いよく開けて、グラスと共にテーブルへ運んでいった。
カウンター越しに見える美しいボトルの並ぶ棚をぼんやり見つめながら、私は物思いに耽った。彼と過ごした沖縄での数日間を思い起こして顔が緩んだ。
何かを期待していたわけではないはずなのに、彼の幸福な家庭を想像して寂しさを少し覚えた。店内に流れる低いJAZZに消されることなく、扉の外からは雨の音が聞こえていた。
ふと、オートバイに乗りたいと思った。家に帰ったら、またレンタルバイクの予約を入れようと思い立った。今度こそは、あの思い出の高原のワインディングロードを走ろう。そう思った。
お気に入りの写真を撮ってくれた女性と出会った道だ。あの道ならば、今の自分の技量でも走れるはずだ。一人のんびり走るには最適な道のはずだ。
いや、誘ってみようか。振り返ると彼は三人の客と談笑していた。彼となら、何も気にせず自然に走ることができるのではないか。あの時のように。そう思えた。
しかし、あの時とは違う。彼の背中に惚れてしまうことは許されないのだ。彼には愛する妻と子供がいる。いつものように一人、私は自由に走りに行こうと決めた。
じゃあまた、とあっさり店を出て雨の中を歩きながら、まったく忘れていた言葉を思い出した。
「バイクに乗る女は独身のほうがいいな。ずっと一人でいる女。」
そう言ったのは、亡き親友の夫だ。彼の友人が私に一冊の本を教えてくれた。それが私のオートバイとの最初の出会いだった。
おわり
これまた創作です。妄想の中で癒されようとしているのだろうか、わたしは。( ̄∇ ̄;)ハッハッハ。バイクはヤマハ。
コメント