船長が死んだと聞いた日の夜、仕事を終えてバイクでヨットハーバの手前の桟橋へ走って行った。気持ちのやり場が無くて、アパートにはいたくなかった。船長と出会った、あの場所へ行きたかった。
クルージングクラブの出入り口は、当然のことながら閉まっていて、あたりには真夜中の闇。
少し戻って割り堀川にかかる橋の上にバイクを止め、ガードレールに腰かけてタバコに火をつけた。吸っては捨て、吸っては捨て、何本も何本も火をつけて吸っては川に投げ捨てた。
なぜ、出会いたかった人に出会ったばかりで、その人を永遠に失わなければいけないのか、私には理解ができなかった。
怒りがこみあげてきた。
涙が止まらなかった。
その人は、クルージングクラブの船長だった。
使うこともなかった船舶免許を持っていた私は、離婚をした解放感からか、無性に船に乗りたいと思った。本屋の棚のボート雑誌の後ろの方に、横浜のクルージングクラブの募集記事を見つけて、考える前に応募していた。
大きいとは言えないモーターボートで、式根島まで行った。船長は大型クルージング船の雇われ船長だったらしく、それより以前はマグロ船に乗っていたとも聞いた。
離婚後の私にとって、その船旅は楽しくて仕方がなかった。
船長は、式根島のイカ釣りの人の並ぶ埠頭でこんなことを呟いた。テンション高めの私には、ずっと意味不明だった言葉だ。
「三界に家無し、なんだよ。俺は。」
普通は女性のことを言うらしい言葉だとも説明してくれたが、へぇ、と聞き流した。
島の海岸沿いの岩場にある温泉に、船で行って沖に停泊し、泳いで湯に浸かりに行く。帰りはまた泳いで船に戻るのだった。
日没後に港に戻る船から見えた陸の灯りが、とても綺麗だった。真っ黒な底知れない海面の恐ろしさを忘れさせてくれるほどの感動があった。
これからの私の人生に、船長はきっと無くてはならない存在になるだろうと予感していた。船を、海を、それらの素晴らしさを教えてくれる人だったからだ。私は、その人からいろいろなことを学んでいくのだろうと思っていた。
陸に戻り、クルージングクラブで小さな宴会が開かれた。船長が密漁したらしき、大きな栄螺を焼いてくれた。栄螺の好きな私は、美味しくいただき、大きな貝殻を一斗缶に捨てた。
船長はすかさずその貝殻を拾い、こう言った。
「こんな綺麗なものを捨てるんじゃない。持って帰りなさい。」
「え、だって空っぽだし。。。」
「綺麗だろ!」
「え、どこが?。。。」
怒ったように栄螺の貝殻を押し付けて、船長はどこかへ行ってしまった。棘の張り出した大きな栄螺の貝殻二つを、私はしぶしぶ持ち帰った。
その数日後、船長は埠頭の作業中に倒れたクレーンの下敷きになって亡くなったと聞いた。その知らせは、クルージングクラブとは全く関係の無いところから風に乗って私の耳に届いたのだった。
どれくらい後のことだったか、棘の長い栄螺は潮流の激しい場所に生息するのだと知った。真夜中に海に潜って、そんな場所で船長は栄螺を採ってきたのだ。私たちに食べさせようと。
それから一週間か二週間、もしかしたら一ヶ月だったか。家でも、仕事で運転中の車の中でも、気を抜くと泣いていた。
何度かの引っ越しを経て、栄螺の貝殻は朽ち果てて、いつだったか手放してしまった。
もっともっといろいろなことを教えてほしかった。
恋でも愛でもない、だけど出会いたかった人、そんな出会いは、めったにあるものではない。
トップの写真は、当時の栄螺。海と島は、船長亡きあと、追悼のクルージングにて。式根島、神津島どちらか。1995年のことだった。
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