1990年2月9日の日記

写真はイメージです(1989年四国の旅にて撮影)

 

 

「バイクが世間に認められるのはいつか」なんて雑誌に書いてあった。

そう、早く認められて走りやすい世の中になればいい。

 

そうじゃない、認められてないから乗りたくなるんだ。

認められてない自分を自分で認めるために、認めらてないバイクが必要なんだ。

 

レールに乗っかって「自分自身」ではなく「他と同じように」と心掛けて生きている人たち。

彼らは世間で、社会の中で認められて静かに生きている。

 

彼らは、たぶん、きっとバイクなんて乗らないだろう。

なぜなら、必要がないからだ。

 

レールではない自分の道を行きたいから、自分が自分のまんまで生きていきたいから、バイクが必要なんだ。

風が気持ちいいから、カッコいいから、それだけが理由じゃない。

 

ファッションで乗り始めた女子だって、モテたいから乗ってる男子だって、全身使ってバランスとって、自分で前向いてアクセル開けなきゃ、前には進めない。

 

レールの上を歩むなら、風の気持ち良さだって知る必要がない。

自分が自分のまんまで生きることは、たとえバイクに乗らなくたって危険はいっぱい付いて回る。

だけど、バイクがあれば自分らしく生きやすくなるのは確かだ。

 

バイクが認められること、ライダー人口が増えること、それは人がそれぞれの価値観で生き始めるようになった、本当に自由な世の中になったことを意味するのだろうか。

あるいは、バイクに乗ることすらテキスト通りになってしまった平穏な世の中になったということなのだろうか。

 

 

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