人生を変える出逢い、そんなもの自分にはあったのかな。そんなふうに思える今だけど、思い起こせばあったじゃないか。
出逢わなければこうはならなかったという出逢いが。マイナスの出会いもあったけど、プラスの出逢いだけ綴りたい。
今、再ブームなのか?と思える、片岡義男の小説、そして三好礼子の存在。彼らとの出逢いが無ければ、わたしはオートバイには乗らなかっただろう。
今思えば、バカすぎて可愛くてたまらなかった頃の自分は、ジーンズのポケットに、ジャンパーのポケットに、あるいはバッグの中に、いつも一冊の文庫本を忍ばせていた。そして、頭か、もう一つのポケットにはバンダナ。
自宅の室内ではなく、どこか他の場所で読んでほしい、できれば旅の空の下で。そんなことを片岡義男はどこかに書いていた気がする。
旅をする時、外出するとき、私はいつも一冊の本を持参した。本を持っていなければ落ち着かないほどだった。不思議なことに、彼の小説は、その相応しい場所でしか読む気になれなかった。
そしてわたしは衝動的に二輪の免許を取得し、深く考えることもなく自然ににオートバイを買った。誰にも相談せずに。
それからは夢中で毎日のようにオートバイに乗って、どこへというあてもなく走り続けた。
ほぼ一年間は、何が楽しいんだろう、こんなにしんどい思いをして。そう思いながらも、乗らずにいられなかった。
オートバイとオートバイに乗って走る自分に慣れた頃、旅をすることが楽しくなった。
何より、生きづらさや、落ち込んでいる気分を話題にしていた日々から解放してくれたのがオートバイだった。
そんな夢中なわたしを見ていた身近な人たちは、オートバイの存在がどれほどわたしにとって大事だったかを今でも記憶しているようだ。彼らの言葉に、自分のことながら驚かされることがある。
幸いなことに、オートバイに乗ることを否定されたことがない。全く親しくない他人には、それ以外の楽しみを見つけたらどうかと言われたれたこともあったけど。
そして今、わたしはオートバイに乗っていない。
どうして、乗り続ける側に自分がいなかったのか、たまにそんなことを思う。軌道から外れてしまったのか。
最近手に入れた「片岡義男と旅する一冊。」という雑誌を、今日もまたカフェで読んできた。なぜだか、やはり自宅では読む気になれない。
文字が小さくて読みづらいぺージもあったが、今日は少し読んでみた。
著名な人たちの好きな作品ベストスリー。トネ・コーケン氏の文章を読んで涙が滲み、ただでも見えにくい文字が霞んで読めなくなった。涙がこぼれてしまったら、と、人目も気になった。
自分と同じ思いをしていた人がいた。しかも、作家さんだ。夜の道を走り、街で働く人を見て涙したこと。
誰にも理解されないと思っていたけど、泣きながらオートバイで走っていた人はけっこう多かったのかもしれない。
さて、自分はどうしたいのだろう。過去の素晴らしい思い出が懐かしいだけなのか、今オートバイに乗りたいのか、乗ることが必要なのか。
たぶん、まだ回想で満足している段階だ。本当に乗る必要があるなら、もう乗っているはずだから。
理屈や理由は必要ない。強いて言うなら、必要なのは情熱と衝動、それだけだ。
もしかしたら、人生を変えるもう一つの出逢いが必要なのかもしれないけれど。
片岡義男作品は、今でも多くの人の人生を変え続けているのかもしれないね。
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